めぐみろぐ

思ったことを書きます

苦手は克服しようと思わないほうが克服できる説

「苦手を克服する」という考え方が苦手です。苦手なものは苦手なままでいいじゃないか。と思います。
というか、意識的にがんばってそう思うようにしています。だって苦手なものは苦手なんだもの、と。


そんな私もちょっと前までは「苦手なものは克服した方がいいに決まってる!苦手なものが少ない方が楽しいはずだし」と妄信していました。

たとえば、ピーマンが嫌いな子供が、「ピーマン、苦手だけどちょっと食べてみようかな」で食べてみて、
「あれ、確かにおいしくはないけど、でも食べられた!」ということが自信につながる、とかそういう話です。

そうやって少しずつ接触機会を増やしていくうちに嫌いなものを好きになったり、苦手なものが得意になったりすると信じていたのです。

それは物だけでなく人でも同じで、どんなに気が合わないと思った人とでもコミュニケーションを取れば、すごく仲良くなることは無理でも分かり合える部分もあるのではないかと思っていたのです。かつては。

しかしあるとき、ふと気づきました。
「苦手なものを『克服』するという考えってすっごい不健康じゃない?」ということに。

「あの人ってちょっと苦手だな・・でもよくよく考えれば、親切にしてくれるときもあるし・・」
「○○苦手だな・・でもよくよく考えれば、ちょっと楽しい部分もないわけじゃないし・・」

みたいな、「でもよくよく考えれば、いいところもあるし」というような「がんばっていいところをみつける」のってすごい精神衛生上つらくない?っていうことです。

苦手な人のことも苦手なもののことも、苦手なままでいいや、くらいの方が結果的にうまくいくことが多いということに気づいたのです。

要は心に嘘をつかないということ。


しかし(またここでピーマンの例えに戻りますが)
どうしてもピーマンを食べなくてはならない時というのもあります。

そういうときも、
「ピーマン、苦手だけど、もしかしたら私が気づいてないだけで本当はおいしいのかも?」とか思う必要はないということ。

「ピーマンほんと苦手だわー!!まあでも苦手だけど!食べてあげるわよ!しょうがないわねえ!苦手だけど!」
くらいにしておいた方が気が楽なんじゃないのかということ。


ネガティブをポジティブに変換するのって、ものすごいエネルギーを伴います。

むしろ「苦手だなー!」と感じる、その心を自分で受け入れて自然に過ごしているうちに、
「あれ?そこまで忌み嫌うほどのものではなかったかもしれない」というように「結果的に克服してた」ということのほうが私は多いように思います。

苦手だと思う理由は、「現在の自分にとって不快である」というそれだけで十分。

自分の感覚を、大事にしていこうと思うのでした。


そんな私は、夏という季節が大大大大大大大大の苦手なので、夏が終わろうとしていることを、ほんとうに心から喜んでいます。
間違っても「でも夏にもいいところがあるし」「でも家族で旅行にも海水浴にも行けて楽しかったし」なんて考えません。だってあんなに暑くなければもっと楽しめたはずだもの。
これからは私の季節がやってくるのです。

私、適性がないかも・・?それでも○○がやってみたい!というときの心の持ち方について その2

さて今回は、前回の投稿「私、適性がないかも・・?それでも○○がやってみたい!というときの心の持ち方について」の続きです。

 

前回の記事はこちらです↓あ、読んだら戻ってきてくださいね。

blogmegumi.hatenablog.com

 

そもそも、なぜこのようなことを書こうと思ったかと言いますと、私自身が、「あー私やっぱり○○向いてないわ・・でもやりたい!」というような葛藤だらけで苦しかった学生時代~20代を過ごしたからです。今思えばあの頃は必要以上に自分を追い詰めすぎていたのです・・。

この、○○、に入る言葉は色々ありますが、私にとって一番葛藤が大きかった「○○」は、大学卒業した22歳の春、完全文系&ほぼ前提知識なしの未経験で飛び込んだシステム開発のお仕事&プログラミングだったと思います。
でも何だかんだ紆余曲折ありつつも、今もその分野でお仕事をさせて頂いていて「やっぱりあのとき挑戦して正解だったな」と思っています。

まあそこらへんのことはおいおい書いていくとして、今回は「適性がないかもしれないことに挑戦するとき、こんな心の持ち方をすると挫折しないで乗り切れるかも?」という心の持ち方について、つらつら書きたいと思いますのでお付き合いください。

それではひとつひとつ見ていきます。

独学・独習にこだわるのは程々にしたほうがいい

独学って、楽しいですよね。自分のペースで学べるし、自分のやりたいと思うことにどれだけ時間をかけても誰にも何も言われないし。しかもお金もそんなにかからないし。
何かを習得したり学んだりする楽しさを一番感じられるのは何の分野においても独学だと私は思っています。基本的には。

でも「結果を出す」ことや、「学んだ内容を活かして何かに役立てる」といった、アウトプットすることに狙いを定めた場合、指導や助言をしてくれる人(メンター)がいた方が効率が良いです。
努力の方向性が間違っていないかどうか、そのやり方で結果は出せそうかどうか、ということについて、客観的に意見を言ってくれる有識者がいたほうが道に迷いそうなときに軌道修正が早くできます。あとがんばったときに「よくがんばったね!」って言ってもらう、ということもモチベーション維持につながります。

そしてこれは「メンターがいれば誰でもよい」というわけでは当然なくて、メンターと自分との性格的な相性、指導内容と自分の生活スタイルが合うかどうかということはとても大事ですよね。例えば、

  • 通学がよいか通信教育がよいか?頻度は?
  • 目指すゴールはどこか(仕事にしたいのか、それとも趣味としての上達を目指すのか、等)
  • メンターとの性格的な相性はどうか?

というようなところの見極めが大事です。そこら辺を見誤ると、あれ?独学の方が良かったんじゃ・・?ということにもなりかねません。

まずは失敗しても許される環境を整える(極力人に迷惑をかけないようにしようという意識はあったほうがいい)

挑戦に失敗はつきもの。失敗なくして成功はありませんが、かといってむやみに失敗を重ねればよいというものでもないのが難しいところ。

例えば、

  • 自分の失敗によってすごく人を傷つけてしまったり
  • その失敗によって周囲からの信頼を失ってしまったり

そういう取り返しのつかない失敗に発展してしまうようなことがあろうものなら
私のようにメンタル弱めの人間はすぐ
「あああああ私、やっぱりこんなことやるべきじゃなかったんだあああああ・・」
となってしまい、挑戦する勇気・気力が喪失する可能性もあるから。


というわけで、少しずつ段階を踏んで、成功体験を積んでいくということで、挑戦しても大丈夫!という安心感が育まれるのだと思います。

 

すでにその道で結果を出している人が考えた既存のアイディアに頼る

適性がない分野のことに関して自分なりのやり方で自分なりの努力を続けてしまうと、全然上達しないどころかやればやるほど後退していったりします。

「自分の頭でものを考えなさい」という人がいますが、なんでもかんでも自分の頭で考えてはいけないのです。適性がない場合や、その分野に対する知識や経験が足りない場合、何でも自分で考えていては大けがをするのです。
すでにその道で結果を出している人のやり方を、まずは受け入れてやってみるという素直さも必要です。
ちなみにここで参考にするべき「すでにその道で結果を出している人」ですが
間違っても、元々適性があって短時間であっという間に成果を出した人のやり方なんかを参考にしてはいけません。
参考にすべきは「出来るだけ自分とタイプが似ていて、かつ結果を出している人」であることが成功への近道です。

無理をしない

もちろん少しの無理は刺激もあって良いのですが、
あまり無理をして結果を出そうとしすぎる行為は、自分の精神状態を無視する行為になり、やがて挑戦することが辛くなってしまうでしょう。
まず楽しむことが大事なのであって、そこに楽しさが見出せず、それ自体をやめてしまうようなことになっては元も子もありません。自分を追い詰めることしか出来ないような無理の仕方はナンセンスです。

できなくて当たり前なので、出来なくてもいちいち落ち込まない

「私なんて全然だめ・・あれもできないしこれもできないし」
というようなネガティブ発言が多くなってしまうときの心理って
「ほんとうは私はもっと出来るはずなのに…」という自分への自信があることの裏返しでもありますよね。
下手に自分に対する自信があるせいで、その自信を失うたびにいちいち落ち込む羽目になるのなら、自信というものは必ずしも必要ではないということになります。

落ち込んでいる時間というのはなにも生み出しません。
落ち込んでいる時というのは、ただ停滞がそこにあるだけです。落ち込んでいるくらいなら何も考えずその時できることを少しでもできることをやる、という単純さが必要です。

 

「私こういうの向いてないから」に逃げすぎない。やればやった分だけ能力は向上するのが当たり前だから、昨日の自分と比べて少しでも成長していたら自分をほめる

  • 向いているとか向いていないとか
  • 適性があるとかないとか 

というのは、要は他人と自分を比べているからそのような発想が生まれるのであって、
他人のことは一旦置いておきましょう。
そんなことに関係なく、かつての自分から今の自分が成長していたら、「よくやった!わたしえらい!最高!!」くらいの勢いで褒めましょう。

たとえ誰も褒めてくれなくても!自分だけは自分の味方でいてあげましょう。

おわりに

いかがでしたでしょうか。

人間、やはり向き・不向きというものがあるので、自分の適性というものが明らかになっている場合は、適性があることに情熱を注いだ方が圧倒的に「コスパがいい」のは確かです。だがしかし、コスパだけを求める人生というのもなんだか面白みに欠ける。

適性云々とは関係なく、単純に「あれ面白そう、やってみたいなー」という気持ちは何歳になっても大事にしていきたいです。

(興味の赴くまま何でもかんでも手を出していては時間が足りなくなるので、優先順位をつけることは必要ですが!)

そもそも、やってもいないうちから「自分はこういう人間なんだ!だからこれはたぶん向いていないんだ!」と思い込んでいる向き・不向きの分野って意外とあてにならない気もしていて、結局どれだけ情熱と時間を費やして、長く継続することができるかだな、なんてことを思う昨今です。

私、適性がないかも・・?と思いつつそれでも何かに挑戦するときの心の持ち方について

「自分に○○の適性があるかないか」
ということと、
「○○をやってみたいかどうか」
ということって、根本的に別の問題でして、

「やりたい」という気持ちは、自分にその適性があるかどうかに関係なく、気が付いたら発生するものだと思うんですが、

 

子供の頃とちがって、それなりに大人になると

「○○やってみたいな・・でもやってみてうまくいくかな・・」

「多分いままでの経験から考えて、私には○○の適性ってあんまりなさそうだし・・」

なんて余計な感情が湧き上がりがち。

経験が~邪魔をする~♪ とglobeのKEIKOも歌っていましたね・・(ああ小室さん)

 

「○○をやってみたい!でも、今までの経験から考えて自分はこういうの向いてないかもしれないな・・やってみてうまくいくかな…」なんて言って挑戦することから目を逸らしてしまうと、
そのときの「やりたい」という思いはどこへいってしまうのか?と思うわけでして、

多分、心の奥底に、「あのとき挑戦できなかった」という思いはずーっと残り続け、「ああ、生きてるあいだに○○に挑戦しておきたかったな・・」という思いを抱えながら死んでいくのかと思うと・・


そんなのは!そんな人生は!私は嫌なんだああああああああ!!!

 

すみません取り乱しました。

そんなわけで、やりたいことがあるときは、何事も、あんまり深く考えすぎずにできそうなところから挑戦してみて、それから考えたらいいじゃない?と、基本的には思っているのですが。

しかし、あんまりノープランでは計画倒れになる可能性もあります。

 

それに戦略をたててから取り組まないと、以下のようなデメリットが考えられます。

  • 適性がないと技術の習得までに時間がかかるので、モチベーションの維持が難しい
  • 適性があってめきめき上達する人と自分を比べて「ああ…私ってばやっぱり、こんなことやるべきじゃないんだ…」なんて自信喪失する可能性がある
  • 複数人で取り組むジャンルのものである場合、技術の習得に時間がかかると、他の人に迷惑がかかる可能性がある

 

せっかく勇気を出して挑戦するのに計画倒れは勿体ない。


というわけで、「私、あんまり○○の適性がないかもしれない・・でも○○がやってみたい!」というときの心の持ち方を以下にまとめます。

これらを脳の片隅においておくと比較的順調にスタートが切れる・・かもしれません(個人の感想です)

 

  1. 独学・独習にこだわるのはほどほどに。(信頼できるメンターを探す)
  2. まずは失敗しても許される環境を整える
  3. 極力人に迷惑をかけないようにしようという意識はあったほうがいい
  4. すでにその道で結果を出している人が考えた既存のアイディアに頼る
  5. 無理をしない
  6. できなくて当たり前なので、出来なくてもいちいち落ち込まない
  7. 「私こういうの向いてないから」に逃げすぎない。やればやった分だけ能力は向上するのが当たり前だから、昨日の自分と比べて少しでも成長していたら自分をほめる

 

こんなところでしょうか。

 
次回、これらについてもう少し詳しく見ていきます。
それではまたお会いしましょう・・!

 

 

【部屋の片付けの話】いつも別れは少しせつない。でもあなたに出会えてよかった。

先日寝室の掃除機をかけようとしたところ、「ていうか部屋に、物が多すぎ!!」と思った。以前から物が多いことに気づいてはいたけれど気づかないふりをしていた。これ以上この違和感を放置しておくわけにはいかない!と決意した。


片付けというのは最初に方針を決めて、作業中は手を動かすだけにしておかないと「これどうしよう・・いるような気もするし・・でもいらないかな・・?」みたいな沼にはまりがちなので、最初に片付けの方針を考えます。


ちなみに私は「整頓」つまり「今そこにあるものを取り出しやすいようにセンス良く収納・ディスプレイする」ということがとても苦手。センス無し。なので、所有物の絶対数を減らさなくては、部屋は片付かないのです。


というわけで方針は「好きなものだけ残す」になった。言葉にすると実にシンプルだ。


しかしここで問題となるのが、この「好きなもの」というものの選別において「どこまでを【好きなもの】にカウントするのか」ということ。


「好き」という気持ちは諸行無常。私はこれが好き!と思い込んでいるだけで実はそうでもない場合もあるし、昔は好きだったかもしれないけど今はそうでもない場合もある。気持ちは、変わっていくのが自然なことなのだ。せつない。


「これどうしよう…好きといえば好きだけど、よく考えたらほとんど手に取ることもないし」みたいな曖昧な感情を発生させてくる物との関係は、潔く清算したほうが気持ちよく生活できる。それは恋人との別れと似ている。


ここで参考までに以下にいくつかの「異性との別れを決意する女性」のパターンをいくつか挙げてみる。


■パターン1
最初は「あの人のことが好き!好き好き好きー!!」って思っていたけどあれ?付き合ってみたら、なんかうまくいかない。私たち、実は価値観も結構違うみたい。あんまり気が合わないのかも。


■パターン2
ずっと側にいるのが当たり前になりすぎた恋人。「彼のこと好き?」と訊かれたならば「もちろん好きだよ」と答える。その気持ちは嘘じゃない。でもその答えがどこか惰性であることを心は知っている。そう、心の奥底では知っているのだ、あの頃の気持ちにはもう戻れないことを。何をしても2人でいるだけで何もかもがキラキラしていた、あの夏はもう戻ってこないのだ。


■パターン3
私が色々あって寂しくてしょうがなかったあの時期、彼が私のことを「好きです!」と言ってくれた。彼のことは、正直まったく意識したことなかったけど、私はその優しさに甘えて、付き合うことになった。でも長く付き合ううち、他の人の事が好きになっちゃった。他の人のことを思いながら、これ以上彼の優しさに甘えているわけにはいかないんだわ…!!


さて、片付けの話。
今回の片付けで、処分の対象となったのはざっくり以下のもの。

 

・「これ便利そう!」と思って買ったけど、よく考えたらそんなに使ってない物や、可愛い!と思って買ったけどよく考えたら着づらいとかあんまり似合わない服など
→これらはパターン1なのでお別れ(処分)。あの時、あなたを初めてお店で見かけてあなたを好き!って思ったあの瞬間が、私達のピークだったのかもね。私にキラキラした気持ちをくれてありがとう。さよなら!


・かつては私を熱狂させたり心を落ち着かせたり癒してくれた、文庫本やCDやDVDなど。もはやほとんど手に取ることがない。
→これらはパターン2に当てはまるのでやはりお別れ(処分)する。今までありがとうね。ほんとに楽しかった。またどこかで会えたらいいね。

 


・とりあえずその時は必要だったので購入して使っていたが、その後もっと高機能な商品を購入してしまい、今ではほとんど活躍の機会がない電化製品など

→パターン3。あの頃あなたを必要だった気持ちは嘘じゃないの。でもこのまま一緒にいても、お互い幸せになれないもんね。きっとあなたなら、あなたを私より大事にしてくれる人と出会えるよ!さよなら!


ちなみにここでいう「お別れ(処分)」は、リサイクルショップ、フリマ、古本屋などへ売ることや寄付も含まれます。

 


このような作業を1時間ほど続けたらとても部屋は片付き、たくさんの男を何股もしていた女が、結婚を機にすべての愛人関係を清算したときの気分になった。経験したことはありませんが。


今まで一緒にいてくれてありがとう。あなた達のことを、私、一生忘れない。私、新しい場所で、幸せになるからね!!


ちなみに何度も言うようですが、片付けの話です。

女子校に7年間通った私が考える、女子校の良いところと悪いところ

私は高校~大学時代の7年間を女子校で過ごしました。

という話をすると「え、お嬢様?」みたいな反応をされることがありますが、違います。
高校は公立でしたが、地元に公立の共学校が極端に少なかったので自然とそういう選択になりました。
大学に関しては、単に大学受験で第一志望の学校に落ちたからですね・・(遠い目)

 

まあ、そんなわけで特に深い考えもなく、7年間を女子校で過ごすことを選択したわけですが、結果として女子校での生活は、良くも悪くもかなり私の人格形成に影響を及ぼしたと思っています。
実感として「女子校でよかった!」と思ったこともあれば、「共学がうらやましい!」と思ったことも、どちらもありました。

 

まず、私が思う女子校のメリットについてです。

 

自立心が養われる

女子校には当然男子がいないので、一般的に「男子の仕事」とされがちな、重いものを運ぶとか、高いところのものを取るとか、機械の操作とか、そういうのも「あ、別に女子だけでどうにかなるな」という考えに、自然となります。
女性だからこれができないとか、男性に頼らないとこれはできない、みたいな発想が消えるということは、これからの時代を生きるのにとても良いことだと思います。

 

異性の目を気にせず過ごせる

学校生活において男子がいないので、何か行動を起こす時に「男子にモテるかどうか」「男ウケが良いかどうか」ということを気にする必要がありません。
自分がやりたかったらやるし、やりたくなかったらやらない。それだけです。とてもシンプルで良いです。
自分はどういう人で、何がやりたいのか、ということを考えるのには好都合です。


次に、こういう点はデメリットかな…と思う点です。

発想がおっさんみたいになる

異性を意識しない生活が長いと、「おしとやかさ」というものが損なわれます。もちろん女子校出身者でもおしとやかな人はたくさんいます。が、私はだめでした。

この辺は言葉で説明するのは難しいのですが、自分の中には確実におっさんが潜んでいるな、という瞬間が折に触れて訪れます。それは多分女子校生活が長かったせいかな・・なんて思います。
女子校出身者でやたらと男っぽい言葉遣いをする人というのは、このおっさんがより表面化したパターンだな・・と思っています。

男性というものへの認識が偏る

青春時代において、男子生徒との接触機会が少ない環境で学校生活を過ごすということは、その期間の「同世代の男子ってこういうもの」という認識が、共学校に通っている学生に比べて欠けるということを意味します。
人間よくわからないものに対しては警戒心を抱いたり、もしくはよくわからないので積極的に接触の機会を持とうとしたり、とにかく対応の仕方が不自然になりがちです。
また、同世代の男子の実態がわからないと、少女漫画やテレビドラマのような恋愛というものがこの世の中に実際に存在するのではないか?などという幻想を抱きがちなので、そうではないとわかったとき少なからずショックは受けますよね・・うん。

 

おわりに

他にもあるかもしれないけれどちょっと今は思いつかないので、私なりの所感をまとめますと、


・青春時代の一定期間、「男子からの視線」に振り回されないで過ごせる点は、女子校最大のメリット

・異性に対する認識は多かれ少なかれ偏るので「あ、自分は異性に対する認識が偏ってるなー」という認識は持っておいた方がいろいろ安心


といったところです。

もし将来自分の娘が女子校に行きたい!って言ったら、上記のようなことを話したうえで、「いいんじゃない?お母さんは女子校行ってたけど楽しかったよー!」と言うと思います。

もし息子が男子校に行きたいと言ったら…
うーん、わかりませんが、男の子ばっかりの中で過ごす楽しさというのもあるだろうし、自分のやりたいことを追求するって意味ではいいんじゃないの?と思うのですがどうなんでしょうか。
男子校出身の方のご意見も聞いてみたいです。

 

それではまた!

「なんでも自分でやりたい」の罠

3歳の娘は、家事のお手伝いが大好きである。洗濯物をたたむのも、みそ汁に具を入れるのも、卵をかき混ぜるのも、全部やりたい。そういう時期である。

本人が「やりたい!」と言っていたことを、うっかりこちらで済ませてしまおうものならもう大変。

「Nちゃんがあっ!Nちゃんがやりたかったああああー!!やりたかったあぁぁぁあああー!!(号泣)」

となる。

なんでも自分でやりたガール、と私は脳内で呼んでいる。

「自分でやりたい気持ち」と「甘えたい気持ち」と「できなくて悔しい気持ち」の間で揺れうごく彼女は我が娘ながらとてもかわいい。めっちゃかわいい。

かわいいけど、サポートする側はなかなか大変である。

こちらの時間に余裕がないと、つい「もう!こんなんじゃごはんの用意が進まないでしょー!あっち行ってテレビでもみてて!」とか、言ってしまう。
言ってしまったあとは、自己嫌悪というか、あーやっちまった、もっとやらせてあげれば良かったな…という気持ちになる。

と、同時に、まるで昔の自分をみているようだ。とも思う。
わかる、わかるよその気持ち・・。と思う。

 

私もずっと、「何でも自分でやりたい」の人だった。

 

私は子供の頃からマイペースで不器用だったので、
「なんでも出来ちゃう器用なひと」への憧れが常にあった。
将来の夢というようなものをはっきりと持てなかった代わりに、「なんでも出来る人になりたい」と漠然と思っていた。

例えばミュージシャンで言うと、作詞も作曲もやって、楽器も全パートやって、歌も歌っちゃう、みたいな、
そういう人に憧れていた。
それでこそ真のプロフェッショナルよ!くらいに思っていた。


私の「(できないくせに)何でも自分でやりたい」は大人になってからもまだしつこく続いた。

社会人になったばかりの新卒時代、仕事はぜんぜんできないくせに、仕事で何かわからないことがあってもなんでも自分で調べて解決しようとしていたし、自分でやりたかったし、自分でやることが正しいことだと信じていた。
だいぶギリギリまで粘って、最終的には「すみませんわかりません、教えてください」と聞きつつも、内心はそれは「負け」だと思っていた。

さぞめんどうくさい新人だったと思うが、当時の私の上司はとてもやさしく、あるときこう言ってくださった。

 

「自分でやることは大事だけど、わからないな、って思ったら聞いていいんだよ。5分調べて分からなかったら、口に出して分からないって言ってみて。そしたら何かしらアドバイスできるから。」

 

その時のなんとも言えない、居心地の悪さと安心感が混ざった気持ちは忘れらせない。

 

そうか、頼ってもいいんだ。

 

と思うと同時に、それまで自分を支えていた軸が揺らぐような感覚があった。

 

私の「なんでも自分でやりたい」は
「私を必要としてほしい」の裏返しでもあった。

「何にも出来ない私には価値がないから、何でも出来る人にならないと、人から必要としてもらえない。」

という、今思えば、かなり極端な考えが、私の中にはあったのだった。

 


その後も色々、色ーんなことがあって、

「ぜんぶ自分でできることが偉いわけじゃないんだ、人に甘えたり協力したりしながら、周りも巻き込んで進めて行く力が大事なんだ」ということや、

「人にはすんなり出来ることと出来ないことがあって、それは当然のことで、何ら恥ずべきことではない」
「分からなかったら分かる人に助けを求めればいい」

というようなことを、実感として受け入れるのに、時間がかかった。

 

そんなわけで、
いまは私の中の「何でも自分でやりたい私」は大分影を潜めたと自分では思っているけれど、もともとがそういう考え方の持ち主だったということは、
今もその後遺症はちょっと残っているって事なんだろうな、と思っている。

気をつけなくては。

と思うと同時に、人に迷惑をかけない(かけてもいい)部分で、自分の好き勝手にできる領域を作っておくということも必要だな、と思っている。

 

と、ここまで私自身のことに思いを巡らせたあと、
「何でもやりたガール」である娘のことを再び考える。

娘はこれから、どういう風にいろんなことを考えて、成長していくのだろう。
それはまだわからない。
わからないけれど、まずは本人のやりたいことを、命の危険がない範囲で、出来る限りやらせてあげる、というくらいしか、結局私には出来ることがないような気がする。

 

何事も、なんでも自分で全部やってみないことには、自分がどこまで出来るのかわからないし、失敗から学ぶこともできない。何が得意で何が不得意なのか、何が好きで何が嫌いなのか、わからないまま大人になるということは、とても不安なことだと思う。

 

というわけで、
まずは、つい「もう!こんなんじゃごはんの用意が進まないでしょー!あっち行ってテレビでもみてて!」
をできるだけ言わないで済むように、大らかな心で過ごすことと、完璧を目指さないことを念頭に、日々の細々としたことを進めていきたいと思うのでした。


長々と、まとまらない投稿にお付き合いいただきありがとうございます。

それではまた!

「結婚って何?」と息子に聞かれたので、結婚について考えた

私と夫は今年で結婚10年目になる。

パパとママは結婚して10年になるんだよ、と5歳の息子に言ったら、

「結婚ってなあに?」と聞かれた。

息子「僕はママと結婚するの?それともNちゃん(←妹)と結婚するの?」

私「違うよー、ママとI君は親子だし、Nちゃんとはきょうだいだから、生まれたときから家族でしょ?だから結婚しなくてもずーっと家族でいられるんだ。でも、家族以外の人で、この人のことが好きだなあ、ずっと一緒にいたいなって思ったら、その人と家族になれるんだよ。でも一度に一人の人としか結婚できないの。そういう決まりなの。」

と説明した。


息子はわかったようなわからないような顔をしつつ、「ぼくは誰と結婚するのかなあ?」と言う。

私「だれと結婚するんだろうねー?これからIくんはいろんな人と出会うから、まだわからないねえ。
それに絶対結婚しなきゃいけない!って決まりはないから、誰とも結婚しなくてもいいんだよ。」

息子「でもぼくは結婚したいなー、だって、たのしそうだから!」

私「そうかー、うん、結婚はとっても楽しいよ。Iくんもそういう人と出会えたらいいねえ。」

 

そんな話をした。

 

息子には、「結婚ってとっても楽しいよ」と言ったけれど、
もちろんこれは、「結婚相手としての相性が良い人と結婚すれば」という条件つきになるわけで、
結婚相手としての相性が悪い人と結婚してしまった場合は、それはそれはもうお互いにとって最悪な生活になるんだろうなー、と思う。たとえ、恋愛相手としては自慢の恋人だったとしても。


私は、10年前、夫との結婚が決まったときに感じた、
「え!あの「恋愛」とかいう超めんどうくさいやつ、もうやらなくていいの!?やったー!!」

という解放感は今でも忘れることができない。



前回も書いたのだけれど、若かりし日のわたしは、自己評価が低くて人からどう見られているかということを気にする呪いにかけられていたので、それはもう恋愛という恋愛がうまくいかなかった。


自己評価の低い人が異性に恋愛感情を抱こうものならそれはそれはもう面倒くさい。

 

 片思いのときは、終始、

「こんな私が受け入れてもらえるわけない・・」
「あの人は私のことをどう思っているのかしら・・」

みたいな感じだし、

 運よく意中の人と付き合えることになっても

「なんであの人はこんな私なんかと付き合ってくれてるんだろう・・」

「私のいったいどこを良いと思ってくれたんだろう・・」

なんていう、まさに考えてもしょうがないことばかりが脳内でループして、恋愛のたびに毎回もれなく廃人みたいになっていた。もう二度とあんな面倒な思いはしたくないわー、と単純に思う。


自己評価の低い人は、自分のことは基本的に嫌いだし、自分の考えというものを基本的に信じることができない。だから自己評価の低い人は、自分とは違うタイプの人により憧れを抱きがちなのだと思う。だから自分から好きになる人とはたいていうまくいかない。

 

・・というのは、私が最高に自己評価が低かった時期から、たくさんの時間を経たからわかることであって、その渦中にいた若いころは


「どうして私が自分から好きになる人とはたいていうまくいかないんだろうか・・」
「きっと私、恋愛では幸せになれないんだわ・・」

 

なんて真剣に悩んでいた。(今思えば、何も「恋愛面で幸せになる」ことを目指す必要なんて全くなかったのだ、と思うけれど。)

 

結婚して、「恋愛というものについて悩まなくてよくなった」ということは私にとって重要なことだったなと思う。

 


恋愛と結婚は、全く別のものであると思う。
恋愛において、相手のことを想ってどきどきしたりするのはとても美しい現象ではあるけれど、それが日常茶飯事だったらなかなかしんどい。
一日中恋愛のことばかりを考えていられるのならそれもいいけれど、毎日やらなくてはならないことが色々あるわけで、一緒に住んでいて毎日寝食を共にしている人と顔を合わせるたびにどきどきしていたら大変すぎて生活が成り立たない。

結婚相手に求める事項として、刺激や高揚感より、金銭感覚の一致や、一緒にいて疲れないかどうか、などの方がずっと重要であると思う。

私と夫は恋愛から始まって夫婦になったし、いまも勿論夫のことが大好きだけど、それは今は恋愛としての「好き」ではないし、そうであることを本当にうれしく思っている。

 
恋愛に限らず、友人関係でもそうだけれど、無理をしない関係は自然に長続きする。
異性とのあいだにある「無理しない関係」を法的に取り決めたものが、結婚、なのかなあと今は思う。


「無理をしない」というのもいろいろな解釈があるけれど、
相手を大事にする気持ちや、相手に対する配慮は持ったうえで、
自分が自然に振るまって、自分の考えている本音の部分を包み隠さず素直に伝えて、それでも関係が破綻しない人となら結婚しても大丈夫、ということになるんでしょうかね。

 

というわけで、まとめると、


・恋愛はとにかくいろいろ大変だけど、結婚すると恋愛に終止符を打てるので良い
・結婚相手に求める事項は恋愛に求めるものとは全然ちがう
・結婚相手としての相性が良い人と結婚すれば結婚は楽しいけれど、そうでない場合は最悪であろう

という具合です。もちろんこれは私個人の考えですので、人によっていろんな結婚観があるのだと思います。

お付き合いいただき、ありがとうございます。
これからも夫のことを尊重して、よい夫婦でいられるよう、がんばっていきたいと思います。

それではまた!